
日本語を学ぶ学習者が世界的に増加するなかで、日本語教育をどのように設計し、どのように成果を測定するのかという点は大きな課題となっています。その指針として注目されているのが「日本語教育参照枠」です。参照枠は、ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)の理念を参考にしつつ、日本語の特徴を考慮して整備された教育の枠組みであり、学習到達度を「何ができるか」という観点から可視化しようとするものです。従来の日本語教育は、文法や語彙などの知識面に重点を置く傾向が強かったのに対し、参照枠では学習者が現実の場面で日本語をどのように使えるかを重視しています。この点が従来の枠組みとの大きな違いであり、実際の教育現場においても応用が進んでいます。この記事では、日本語教育参照枠の成り立ちや目的、レベル区分の考え方、そして教育現場や企業、学習者自身がどのように活用できるのかを詳しく解説します。さらに、参照枠が日本語教育に与える影響や今後の展望についても考察し、日本語を学ぶ人々や指導に携わる方々にとって有益な理解が得られるようまとめていきます。
日本語教育参照枠とは(基本と背景)
日本語教育参照枠は、外国人学習者の日本語力をより実態に即して把握し、教育や評価の共通基盤を作るために整備された仕組みのことです。まずは、日本語教育参照枠の基本情報や背景を解説していきます。
「参照枠」の定義
日本語教育参照枠(以下「参照枠」)とは、学習者が自らの日本語熟達度を具体的かつ客観的に把握できるようにするための指標です。
単なる試験点ではなく、日常・職場・学習環境などで「何ができるのか(Can do)」を言語能力記述として明確化している点が特徴です。
そのため、教育機関や企業では、参照枠を用いて到達目標や評価の基準を整え、公平性と一貫性のある判断に役立てることが期待されています。
背景と制定に至る経緯
参照枠は、2021年に文化庁の文化審議会国語分科会により作成されました。従来の日本語教育ではJLPTなど試験中心の枠組みが強く、点数化しにくい実践的なコミュニケーション能力や「聞く・話す・読む・書く」以外の言語活動、さらに異文化理解や学習意欲といった側面が見落とされる場面がありました。
こうした課題に対応するため、CEFRを参照しつつ日本語教育の文脈に合わせて整理したのが参照枠です。
特定技能制度における日本語要件や、在留外国人・雇用の増加といった社会的変化も背景となり、言語能力の共通基準と透明性の必要性が高まっています。
CEFRとの関係と違い
CEFR(Common European Framework of Reference for Languages)は、言語学習・教育・評価を調整する国際的な枠組みです。
日本語教育参照枠はCEFRのレベル体系(A1〜C2)を参照しながらも、日本語の敬語や文字表記、話し言葉と書き言葉の使い分けなど、日本語特有の要素を反映しています。このため、単純な翻訳や移植ではなく、日本語に即した形にカスタマイズされているのが特徴です。
たとえば、日常会話における敬語表現や、漢字かな混じり文の理解度など、日本語特有の課題が評価基準に組み込まれています。
参照枠の構成要素
参照枠は単なるレベル表示にとどまらず、言語活動や能力を多面的に整理し、具体的な「できること」を提示します。以下の4つの視点から日本語能力を捉えます。
参照枠の大きな特徴は、単一の尺度に依存せず、多角的な切り口で言語力を評価できる点にあります。そのため、従来の試験結果だけでは判断が難しかった実際的な能力も可視化でき、学習者の成長や教育計画の改善に直結します。
また、教育機関や企業が異なる立場から学習者を評価する際にも、共通の基準として利用しやすいのが特徴です。
CEFRレベルによる全体的尺度
総合的な熟達度は、CEFRのA1(基礎)からC2(熟達)までの6段階で示されます。これは試験スコアとの対応や、学習者が自分の立ち位置を把握するための基準として機能します。
また、他言語学習との比較がしやすいことも利点で、多言語学習者にとっても活用しやすい尺度です。
実際に、JLPTでは各級がCEFRに対応付けられており、外国人学習者が将来的に英語や中国語など他言語学習に移る際にも、学習経験を比較しやすくなります。
言語活動別の熟達度
参照枠では「聞く」「読む」「話す(やりとり)」「話す(発表)」「書く」の5領域ごとにレベルを設定します。
たとえば「聞く」はA2、「読む」はB2、「話す(発表)」はB1といった形で、活動ごとのプロフィールを明確にできます。これにより、学習者の得意分野と弱点が浮き彫りになり、学習の重点配分がしやすくなります。
読む力が高いが話す力が弱い学習者に対しては、会話練習を多めに取り入れるといった学習支援が可能です。教育機関の現場でも、こうした多面的な評価は個別指導計画に直結します。
言語能力を構成する4つの能力
熟達度を支える要素は「一般的能力」「コミュニケーション言語能力」「コミュニケーション言語活動」「コミュニケーション言語方略」の4つに分類されます。
「一般的能力」は文化知識や態度、学習意欲など基盤的資質を指し、「コミュニケーション言語能力」は語彙・文法・音声など基礎的知識を意味します。
「コミュニケーション言語活動」は聞く・話す・読む・書くといった具体的行為で、「コミュニケーション言語方略」は推測・言い換え・聞き返しなど、困難を乗り越えるための戦略です。
これらを区分することで、知識不足か経験不足か、戦略の未熟さかを見極められ、効果的な学習計画につながります。
「Can do」の記述文
参照枠における重要な部分が「Can do(〜できる)」で記述されている「言語能力記述文」です。これは、ある特定の言語活動や能力について「何がどのレベルでできるか」を具体的に表現した文章で、学習者・教育者の双方が目標設定・進捗確認を行いやすくするものです。
「活動Can do」「方略Can do」「テクストCan do」「能力Can do」とに分類され、それぞれが異なる視点からの記述を提供します。
たとえば「B1レベルでは簡単なプレゼンテーションを行える」といった形で明示されるため、学習者は将来的にどのレベルに到達すべきかをイメージしやすくなります。
教育現場でも、このCan doを学習到達目標に設定することで、授業の方向性が具体的に見えやすくなるのです。さらに、学習者自身が自己評価や振り返りに利用できるため、学習の自律性を高める役割も担っています。
CEFRレベル:各段階の特徴とできること
参照枠の中心を成すCEFRレベルは、学習者の熟達度を6段階に分けて示しています。以下に、それぞれの段階での「できること」を具体的に説明していきます。
A1およびA2:基礎段階
「A1」は日本語学習における最も初歩的なレベルであり、日常でよく使われる非常に基本的な表現や語彙を理解し、相手がゆっくり・明瞭に話してくれるなら簡単なやり取りが可能です。
「A2」はその次の段階であり、身近な状況や生活場面、簡単な自己紹介・買い物・道案内など、具体的な状況でのコミュニケーションが可能になります。
さらにA2では、短い文章を読み書きしたり、簡単なやり取りのなかで自分の考えを伝えたりできるため、日常生活の基盤を築く段階といえます。
B1およびB2:中級段階
「B1」は自立した言語使用者への橋渡しの段階で、学校・仕事・趣味など日常的に出合う話題で、共通語による会話の主要点を理解し、簡単なテキストを作成できるようになります。
「B2」になると、話題が抽象的・専門的になっても理解できる範囲が広がり、熟達した日本語話者と比較的自然にやり取りできるようになるなど、コミュニケーションに余裕が生まれます。
とくにB2以上では、留学や専門分野の研究活動、ビジネス上の交渉といった高度な場面でも柔軟に対応できる能力が求められます。
C1およびC2:上級段階
「C1」は上級前期レベルで、様々なジャンル・形式のテキストを理解し、含意を読み取る力が求められます。また、話す・書く力も流暢かつ自然で、社会的・学問的・職業的目的に応じて言葉を使い分けることができるようになります。
「C2」は最上級レベルであり、ほぼすべての聞く・読むものを容易に理解し、複雑なテーマでも細かな意味の差異を表現できる能力を備えています。
C2に達すると、母語話者と比べても遜色ないレベルで言語を運用でき、専門的な議論や研究活動にも自在に参加できる段階といえます。
レベルの境界と「相当」の考え方
参照枠では、各レベルには「相当する」という考え方が伴います。たとえば、特定技能制度の日本語要件では「A2レベル相当以上」といった表現が用いられます。
これは、その制度で求められる最低限の日本語能力がどのくらいかを参照枠のレベルで示すということです。
実際の試験スコアやCan do記述が、その基準と一致しているかどうかを確認することが重要です。
参照枠の活用方法
参照枠は学習者が目標を立てるだけでなく、教育機関や企業がカリキュラム設計や人材育成に役立てられる点に大きな意義があります。以下に、参照枠の主な活用方法について解説していきます。
学習者としての活用法
学習者自身も、参照枠を活用することができます。自分がどのレベルにあるかを知ることで、具体的な学習計画を立案しやすくなります。
また、資格試験の目標設定にも役立ちます。たとえば「JLPT N2に合格する」という目標を掲げた場合、参照枠に照らして必要なスキルを確認し、学習を進めることができるでしょう。
これにより、自分に不足している能力を把握し、効率的に学習を進めることができます。さらに、参照枠を用いた自己評価はモチベーション維持にも効果的であり、学習の過程を可視化することで達成感を得やすくなります。
教育機関でのカリキュラム設計
日本語教育参照枠は、学校や大学などの教育現場で広く利用されています。教師は参照枠を活用することで、学習者の到達度を客観的に評価し、授業計画に反映できます。
たとえば、授業目標をCEFRレベルと対応させ、どの言語活動に重点を置くべきかをCan do記述をもとに定めます。レベルに応じた教材選びや授業内容の調整が可能になり、学習効果を高めることができます。
クラス内での評価やフィードバックも、単なるテストの点数だけではなく、活動別・能力別の達成状況に基づいて行うことで、生徒のモチベーション向上や実践的言語力養成につながります。
さらに、異なる教育機関間で学習成果を比較しやすくなり、学習者の進学や編入をスムーズにする利点もあります。教育機関としても統一基準を用いることで、国際的な信用を高められる点が大きな魅力です。
企業における採用・評価・研修での応用
企業においては、外国人材を採用する際にこの枠組みを用いて必要な日本語能力を明確にすることができます。たとえば「このポジションでは、B1レベルの聞く・話す(やり取り)・読む能力が必要です」といった具合です。
評価時にも、Can do記述をもとに具体的な評価項目を設定することで、公平性と透明性を高めることができます。
また企業にとっては研修や人材育成の計画を立てる際にも有効であり、スタッフの能力開発を段階的に進めるための基盤となります。
研修プログラム設計の際にも、どの言語活動を伸ばすか、どの方略(たとえば、聞き取りのための手掛かりを推測する力など)を強化するかを決めやすくなります。
学習支援ツールとしての発展性
加えて、近年ではオンライン学習プラットフォームやアプリケーションに参照枠を組み込む動きも広がっています。
学習者は、デジタル環境を通じて自分のレベルを確認し、AIによるフィードバックを受けながら学習を進められるようになっています。
こうした新しい学習支援ツールと参照枠を組み合わせることで、学習者の多様なニーズに対応できる柔軟な教育が実現されつつあります。
教育機関や企業にとっても、ICTを活用した教育や研修の質向上につながり、社会全体の日本語運用力の底上げに寄与しているのです。
参照枠を使うことで得られるものと注意点
参照枠には、学習や評価を透明化する利点がある一方で、導入や運用の場面において課題も存在します。よって参照枠を導入する際には、メリットと課題をしっかりと理解して活用することが重要です。
参照枠を導入するメリット
参照枠を活用することによって、まず学習者側に自分の強み・弱みが具体的に見えるようになるというメリットがあります。
漠然と「日本語が上手になりたい」ではなく「話す(発表)はB1、読むことはB2を目指す」といった具体的な目標を立てることができます。
教育機関や企業にとっては、言語能力の要求水準を明確にできるので、評価基準や採用条件が公平・透明になります。
さらに、異なる試験結果を比較評価する際にも、共通言語を提供することで、混乱を避けることができます。
主な導入・運用上の課題
しかしながら、参照枠には課題もあります。まず、Can do記述が多数かつ詳細であるため、どれをどの程度使用するのかを選定することが必要です。とくに教育現場や企業では、使用方法が詳細すぎると煩雑になる可能性があります。
次に、評価の一貫性を保つことが難しい場合があります。異なる講師や評価者が同じCan do記述を見ても判断に差が出ることがあるためです。
さらに、参照枠の理解度が低いと、参照枠を使ったコミュニケーションや目標設定があいまいになる恐れがあり、そういった点も運用する際には注意をする必要があります。
解決に向けた工夫と支援体制
これらの課題を克服するためには、まず教育者や企業の中で参照枠に関する研修を行い、共通理解を深めることがとても重要です。
評価者の間で評価基準のカルブレーション(基準合わせ)をすることで、評価に一貫性が保たれます。
また、Can do記述を全部使うのではなく、自社や学校・クラスの目的に合ったものをピックアップして使うことで実用性を高めることができます。
さらに、参照枠を使ったツール(チェックリスト・自己評価表・ポートフォリオなど)を導入することで、日常の指導・学習プロセスに取り入れやすくなるでしょう。
まとめ
日本語教育参照枠は、試験のスコアだけでは測りきれない日本語の実用力・コミュニケーション能力・学習者の自律性などを含めて「できること」を具体的に示すことで、学習者・教育機関・企業のいずれにも有用な基準を提供します。CEFRの6段階レベルを用い、聞く・話す・読む・書くなどの活動別熟達度や、言語知識・活動・方略を構成する能力が整理されており、Can do記述によって目標設定や評価が具体的になります。一方で、運用には選定の煩雑さや評価の一貫性などの課題も伴います。それでも、参照枠を適切に理解し、自社や教育現場の目的に合わせて使いこなすことができれば、日本語教育の透明性・効果・学習者のモチベーションを大きく高めることができます。これから、日本語を学ぶ人・教える人・外国人の人材を雇用する組織が参照枠を活用する機会は増えていくでしょう。また、国際社会における日本語の存在感を強め、多様な背景を持つ学習者が安心して学べる環境づくりにもつながります。参照枠は単なる評価基準ではなく、日本語教育全体の質を高め、社会的な理解と連携を広げていくための重要な土台となるのです。